老いと知的好奇心

「七〇代以前の人生をふり返って思うことは、やはり七〇代以前の人間の言うことなど、つまらんということだ。」

老いと知的好奇心
Photo by Frank Holleman / Unsplash

高齢者による自分語りや説教は、しばしば「時代遅れ」や「老害」などと揶揄され、若者に嫌われます。超高齢化社会となり、視野が狭く貧弱な世界観のまま長生きをしているだけの老人が多くなっているのだとすれば、若者がそこに疎ましさを感じるのも無理もないでしょう。

とはいえ、すべての老人が過去に囚われ自身の経験や知見に閉じこもるわけではありません。むしろ加齢と共に新たな知見を身につけ、過去の自分の浅学を恥ずかしく思うようになる高齢者も存在します。生涯飽くなき好奇心を持ち続けたノンフィクション作家、立花隆さんは、次のように書き残しています。

やはり七〇代後半まで生きて痛感することは、長生きすることは意外に面白いということだ。自分の七〇代以前の人生をふり返って思うことは、やはり七〇代以前の人間の言うことなど、つまらんということだ。昔から、年寄りがとかく口にしがちな言葉としてよく知られているものに、「五〇、六〇は鼻たれ小僧」(あるいは「四〇、五〇は鼻たれ小僧」)という決めゼリフがあるが、あれはホントだなと日々痛感している。昔はあのセリフをただのジジイの繰り言と聞いていたが、今は逆でホントにそうだなと思うことが多い。

(立花隆『知的ヒントの見つけ方』)

さらに、若い頃の自分の言動を振り返り、老いることによって開かれた世界についても語っています。

偉そうなことを若い時から書いてますから(笑)、だから今若い時に書いたものを読み直すと、おそらく、ちゃんちゃらおかしいという感じの部分が相当あると思いますね。

それで、やっぱり年齢を重ねると、歳をとっただけのことは自然とあるっていうか、特に、人間は歳をとったときにどうなるかとか、死ぬことについてどう思うかとか、そのあたりは自分が本当に死が近く見える年齢にならないと、わからない面が多いと思いますね。

(立花隆「『死はこわくない』立花隆インタビュー」)

知識欲中毒である自分を「知のディレッタント」と称し生涯学び続けた立花さんが、同じく死期が近づくまで学び続けた先人の開拓した、老年期でしか得られない知見があると感じたのは、同類として当然のことなのかもしれません。

生活環境の改善や医療の発展のおかげで、人間は簡単には死ななくなりました。日々漠然と生き長らえているだけのような人も増え、それが老人が尊重されない風潮に繋がっているようにも思います。これは同時に、良い老い方をしていない高齢者が増えていることを意味します。

立花さんのように「知」に囲まれて生きることが真に良い生き方なのかということについては、人によると言わざるを得ません。本ばかり読んで、現実に生きることを怠っていそうな人々がやたら多いことは、ソーシャルメディアの愛書家クラスタを眺めていると感じることです。

とはいえ、老いること、究極的には死ぬことに対しても興味を絶やさない好奇心が、若い頃の未熟な自分を反省し、歳を重ねることは意外に楽しいと感じられる柔軟な感性を生んだようです。これが、ただただ死の訪れを待つだけの老後に勝るということへの異論は少ないのではないでしょうか。老いてもなお学ぶことへの好奇心を保ち続けることは、そのような境地に達する秘訣なのでしょう。


出典:

立花隆『知的ヒントの見つけ方

関連書:

ユリイカ 2021年9月号 特集=立花隆 ―1940-2021―