豊富な選択肢のジレンマ
「選択肢が無限であるとき、完璧な選択肢がどこかにあると我々は信じてしまう。」
一般的に、自由な選択肢は豊富であることが望ましいとされています。そのなかで、主体性をもつ個人がそれぞれ自分の好む選択をすれば良い、ということです。これは、貧しさや社会的な制約から、個人が自由に生きることが許されない時代が長かったことによる反動でもあるでしょう。
しかし、選択肢が実質的に無限であるとき、完璧な選択肢がどこかにあると我々は信じがちであり、それを見つけることが自分の責任であるかのように考えてしまうのです。このとき、選択肢は勝てることのない状況を作ってしまいます。もし十分吟味せずに選択をしてしまうと、よりよい選択肢を見逃したのではないかということを後悔することになりますが、すべての選択肢を徹底的に検討することにはより多くの労力が必要となるばかりか、良い選択肢をたくさん発見しすぎて、そのすべてを選べないことを後悔することになるでしょう。このようなジレンマは外食のレストランを選ぶようなありふれたものから、結婚相手や職業選択といった非常に重要なものまで、さまざまな選択において起こりえるのです。1
(シーナ・アイエンガー『選択の科学/原題:The Art of Choosing』)
選択肢が増えるということは、その中から選ぶ判断力や労力が、本人に委ねられるということです。
事実、自分の人生の選択における責任を自分でとりたいかと尋ねられたら、とりたいと答える人が大多数だと思います。一方、自分の人生とは別の、最適解を得ることが難しい問題について、その判断に個人的な責任を負いたいかと尋ねられたら、同じ答えになるでしょうか。恐らく、個人的な責任は負いたくない人がほとんどになるでしょう。その問題について、自分より適切な判断力をもつ別人や専門家を、それこそたくさん見つけることができるからです。
そこで、自分の人生の選択についても、もしかしたら自分より知識や能力、道徳心、そして大局観に優れている他人のほうが、自分にとって最適な判断を下してくれることが往々にしてあるはずだと考えてみると、どうなるでしょうか。
それでもやはり、自分で判断を下して責任をとりたいと答える人が多くなると思います。失敗の確率が高まろうが、より良い結果を得ることより、自分で選択する自由に大きな価値をおいているからです。このとき、自由と豊富な選択肢を得た代償として、よそから与えられた最善の結果よりも、自分が主体性を発揮して選んだ次善の結果、あるいは失敗で納得していることがあるかもしれません。
引用の言葉にあるように、多すぎる選択肢はより良い選択を困難にします。個人はその中から最善の選択をすることを自分の使命のように感じてしまいます。仮に、自分より知見に豊かな他人の助言を仰げる状況にあっても、多くの場合、自分自身の選択や判断を優先したくなります。言ってみれば、自分の主体性と結果の良し悪しを天秤にかけているということです。
自分以外の他人や環境に委ねたほうが、自分にとってより良い結果をもたらす判断をしてくれることがわかっている場合でも、自分こそが判断をし、主体性を発揮するほうが大切である――。多すぎる選択肢を前に圧倒されているとき、自分が本当に、主体性こそ何にも勝るものであると考えているのかを、一度、自問自答してみるとよいのではないでしょうか。自由と責任、結果の関係について、これまでとは違った印象を抱くと思います。
出典:
シーナ・アイエンガー『選択の科学/原題:The Art of Choosing』
関連書:
バリー・シュワルツ『なぜ選ぶたびに後悔するのか オプション過剰時代の賢い選択術/原題:The Paradox of Choice: Why More Is Less』