左右できること、できないこと
「自分で左右できないことに関しては、次の答えを用意しておこう。『自分には関係のないことだ』という答えを。」
生きている以上、私たちは心をかき乱されるさまざまな人や事象に出会います。ある意味、そのような荒波を実感することが生きることの証であるとも言えるでしょう。とはいえ、世の中は自分の思い通りにいかないことばかりです。期待を裏切る結果にいちいち感情を揺さぶられていたら、心身が持ちません。
そこで、古代ギリシアにおいて平静に生きる知恵を説いたストア派の賢人エピクテトスは、まずものごとが自分でコントロールできることか否かを見極めるべきだとしています。
この世には自分で左右できることと、できないことがある。左右できることは判断を下す能力、動機、欲望、嫌悪の感情である。つまり、自分自身の行いすべてである。左右できないことは自分の肉体、財産、評判、公的な地位。つまり、自分自身の行いではない他すべてである。1
(アッリアノス『エピクテトスの提要/The Encheiridion』)
そして、私たちがするべきことは
何よりもまず、それは自分で左右できることか、できないことかを問うてみよ。そして、自分で左右できないことに関しては、次の答えを用意しておこう。「自分には関係のないことだ」という答えを。2
(アッリアノス『エピクテトスの提要/The Encheiridion』)
つまり、自分で左右できないものごとに関しては、執着するべきではないということです。
ここで認識するべきなのは、ストア派は必ずしも「無関心」を奨めているわけではないということです。日常における「ストイック」という言葉は「禁欲的」という意味で使われ、ありとあらゆる感情や欲情を極力排除する人を指すような含意があります。しかし、語源でもある本来のストア派哲学におけるニュアンスはまったく異なります。
たまに、過去の失敗や後悔について、身勝手で他責的な理由を延々と語り始める人がいます。本人にとってはまわりに共感を求めようとする行為なのでしょう。しかし、聞き手にしてみれば、時既に遅く変えられないものごとへの執着に幽閉された囚人を前に、処刑前の最後の後悔を繰り返し聞かされているかのような、憐れみと呆れの混ざった複雑な感情をもつことが多いと思います。
このように、自分でコントロールできない物事に自分の人生を委ねてしまうと、自省の機会が訪れるころ、自分の人生を生きなかったことを後悔することになります。ストア派哲学は、自分ではどうしようもない外面的なものごとへの執着は潔く捨ててしまい、自分で左右できる内面性に豊かな人生を見極め、そこに生きるべきと説いているのです。
2 原文:First and foremost: does it involve the things up to us, or the things not up to us? And if it involves one of the things not up to us, have the following response to hand: “Not my business.”
出典(『エピクテトスの提要』を含む):
エピクテトス『 2000年前からローマの哲人は知っていた 自由を手に入れる方法 /原著:How to Be Free: An Ancient Guide to the Stoic Life (Ancient Wisdom for Modern Readers)』
エピクテトスについての入門書: