心の中の声なき声
「心の中には自分では話すことができない部分が非常にたくさん存在する」
心の中を理解しようとするときに、口から出てくることだけに注意を払うのは間違いである。なぜなら、心の中には自分では話すことができない部分が非常にたくさん存在するからである。1
(ロバート・クルツバン『だれもが偽善者になる本当の理由/原題:Why everyone (else) is a hypocrite: evolution and the modular mind』)
現実世界とは、ひとつの独立した心をもった主人公である「私」が経験している劇である、と捉えてはいないでしょうか。私たち一人ひとりのなかに、人生という劇が、眼の前の映画館のスクリーンに映し出されるのを鑑賞しながら経験する意識の主体(=主人公)があり、それが自我であるかのように考えてはいないか、ということです。(哲学ではこれを「デカルトの劇場」と呼んだりするようです。)個人主義が行き渡った現代社会では、他の誰でもない「自分らしさ」や「自分のアイデンティティー」といったものを問うことが流行っています。これは、自分という主体を支える自意識=主人公は何なのかを見極める行為と言ってよいと思います。
しかし、このような自己中心的な主体を前提とした意識の捉え方は、必ずしも現実に沿ったものではないということが科学的に理解されつつあります。人間の心の成り立ちが明らかになるにつれ、人間の心はひとつの独立したユニットとして一貫性を持つものではなく、別々の機能を持った複数のモジュールから構成されていると考えられるようになっているのです。
例えば、心理学者ジョナサン・ハイトは自著『しあわせ仮説』で、人間の心は右・左、新・旧、感情的・理性的、そしてコントロール下・自動という4つの軸によって別れているとしています。このような心の部位の連結が切り離されたときどのようなことが起こるのかについては、人間の意識をテーマに扱う一般科学書に興味深い例が多く紹介されており、ぜひ一読をお薦めします。
先に引用した心理学者ロバート・クルツバンは、ハイトによるこのような分類でも粗すぎると考えます。長い生物進化の歴史において、人間の祖先は存続のために多種多様な課題を解決する必要がありました。人間が複数の別々の機能を持った臓器の複合体であるように、脳も複数の部位が、それぞれ生存のための特殊な課題解決のために特化して進化し、複数の「心のモジュール」からなる複雑な器官になったと考えられるのです。
人間の心はそのような数々のモジュールの集合体であるため、モジュール間の連携は完全ではありません。生物進化史において、モジュール化された心の持ち主の生存や子孫の繁栄に必要でない連携は、進化する必要がなかったからです。生命の存続にとって有益な連携だけが進化すると考えると、異なる課題解決のために半ば独立して発達した数々のモジュールが、自意識のような中心によって一元的に連携し、管理されなければならない理由は必ずしもないのです。例えば、人間の道徳心は理性に司られるものではなく、直情的にトリガーされ、その判断の論理的な正当化はしばしば後付であることがわかっています。ある行動を反道徳的とする判断と、その理由付けは、別々なモジュールで処理されているということです。
多くの人は、故人の墓石に向けて放尿することに道徳的拒否感をもつと思います。ただし、その理由を詰められると、必ずしも一貫して妥当な答えを持っていません。墓石に放尿することによる実害を考えてみます。既に亡くなっている故人に現世において実害は及びません。故人の友人や親族なら被害者としてあげられるかもしれませんが、知人がひとりもいない孤独な無縁仏ならばどうでしょう。死者への悼みのないモラルの破綻した社会が被害者であると考える人は多いでしょう。しかし、墓石への放尿を観察する者がいなければ、この行為に無知な社会に実害があるとはいえません。実際、無縁仏であれば社会の誰にも顧みられないことがほとんどでしょう。このように、私たちが墓石に放尿する行為を反道徳的と感じる本当の理由は、本人が言葉で表せる論理的なものであるとは限りません。要は、「理由はないが、ダメなものはダメ」といった直情的な判断をする、「自分では話すことができない」モジュールが先行し、別の「自分で話すことができる」モジュールが勝手な理由付けを行うことがある、ということなのです。
このような脳の構造的な理由により、私たちの心の中は、しばしば相矛盾した複数の意志の集合体みたいなものになっていると考えられます。クルツバンは人間の意識を、このようなモジュールの集合体を調整する役割を担う、アメリカ合衆国における「大統領報道官」のようなものとして考えます。報道官はスポークスマンとして大統領(=心の所有者)の利益のために、さまざまな物語を広報しますが、本人ではない以上、大統領の本心を知っているわけではありません。ときには勝手な理由をでっちあげてまで、大統領の一般的な印象を良くしようと頑張っているわけです。
これが、心の中の「口から出てくる」部分であり、私たちが自分の主体として意識している心の部分なのです。だたし、これは心のほんの一部であり、先の道徳的判断の例に上げたように、自分では話すことができないモジュールが、他に大多数存在していると考えられるのです。このように理解すると、先頭で引用したクルツバンの言葉の意味を理解できるようになると思います。
自分の中に、自分でさえその声を聞くことができない複数の心が宿っているという事実には、ある種の気持ち悪さを感じるかもしれません。そして、自我を一人の主人公に閉じ込めることができないという考え方を突き詰めると、自意識とはなんだろう、私とは何だろうといった、根本的に難解な命題にたどり着いてしまいます。(そのようなことを考えることが現実に生きることにはまったく役に立たず、むしろ害があるからこそ、自分で話すことができない無意識下に封印されているのかもしれません。)
私たちはしばしば主体性をもち、自立して生きるよう促され、それが良い人生を生きる秘訣であるとさえ教えられます。しかし、私たち自身が自分の内心のたった一部のみしか意識できず、さらに、外界とのコミュニケーションがスポークスマンの代弁を介してのみ可能なものであるならば、それは「本当の自分」を認識していると言えるのでしょうか。ひょっとしたら、私たちはこういった機序が代弁する人生に沿って、生きさせられているだけと言えるのかもしれません。そして、声なき声を聴き取れない私たちに、「本当の自分」を探し求めるよう促す良心は、自分らしい自分をエンパワーするようでいて、実際は無理難題を押し付けているだけなのかもしれません。
出典:
ロバート・クルツバン『だれもが偽善者になる本当の理由/原題:Why everyone (else) is a hypocrite: evolution and the modular mind』
ジョナサン・ハイトは自著『しあわせ仮説/原題:The Happiness Hypothesis: Finding Modern Truth in Ancient Wisdom』
意識について:
スーザン・ブラックモア『意識 (〈1冊でわかる〉シリーズ)/原題:Consciousness: A Very Short Introduction』