敬老と老害
「僕はもう唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものしかないんじゃないかなと。」
日本の少子高齢化が引き起こしている社会問題で、もっとも深刻なもののひとつは世代間対立です。年功が前提の報酬体系、年長者を優遇するばかりの旧態依然とした制度の数々。現役世代として老人のリタイアメントを支えつつ、自分たちの番には破綻必至と言われる社会保障制度の不公平などについて、若者は憤慨しています。
一方、高齢者にも言い分はあるでしょう。子どもは巣立ち、経済的な先細りを実感し、配偶者を失い、あるいは生涯未婚で子無しであったり、肉体的に衰えを感じ、一つひとつ生きがいを失い始めるころ「老害」と言われはじめます。嫌々ながらも続けてきた家事や労働、人生の経験を否定され、「姥捨山にいけ」などと茶化され(あるいは真顔で促され)、半ば存在を全否定されることに気分を良くする高齢者が多いはずはありません。
労働力ではなくなり生殖や子育ても終えた高齢者たちが、福祉国家において負担になることは事実です。リタイアメントと社会保障がある意味「特権」にさえなりつつあることは、例えば定年退職を延期するための改革が、フランスでは暴力的な政治活動にまで発展したことなどからもわかります。
世代ごとの尊厳がぶつかり合うこのような問題に、「集団自決」という提案をして物議を醸したのが経済学者、成田悠輔さんです。
成田:僕はもう唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものしかないんじゃないかなと。
平石:なんてこと言うんですか。(笑)
若新:前から言ってるじゃん。今日は言わないかと思ってたらついに言いやがった。(笑)
成田:いやいや、これけっこう大真面目で、やっぱり人間って引き際が重要だと思うんですよ。別に物理的な切腹だけではなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて、過去の功績を使って居座り続ける人っていうのがいろいろなレイヤーで多すぎるっていうのが、この国の明らかな問題で、まったくろれつがまわってなかったり、まったく会話にならないような人たちが、社会の重要なポジションっていうのをごくごく普通に占めていて、僕たちそれが当然だと思っちゃってるじゃないですか。当然だと思っちゃってることがすごく危機的な状況だと思っていて、消えるべき人に消えてほしいって言い続けられるような状況をもっと作らないといけないんじゃないかなと。
(2021年12月19日放送『Abema Prime』より)
成田さんはしばしば敢えて奇をてらう表現を使い炎上することを楽しむ愉快犯なので、字面どおりに解釈しネタにマジレスなようなことをしては彼の思うツボでしょう。この発言に関していば、高齢者全体というより、権力の座にしがみつきいつまでも手放さない、例えば自民党の老齢議員のような権力者を指しているとするべきでしょう。そして、そういった批判はまったく妥当なものです。
しかしながら、「集団自決」という表現が独り歩きし、福祉社会の重荷としての老年世代全体を指すことに使われていることも確かです。だからこそ、普段は老獪な自民党議員を執拗に批判しているような人々でさえ、老人蔑視という文脈に置き換え、気に入らない発言をした成田さんを社会的にキャンセルするための圧力として利用してきたのです。
日本にも「敬老の日」があるように、年長者を敬うことを道徳とする文化は珍しくありません。これは長生きが困難だった過去の名残でしょう。長年にわたる労働や子育て、権力闘争その他、さまざまな困難を乗り越えて生き残った鑑として、尊敬に値したのだと思います。核家族化により親戚との数世代に渡る関係性は薄くなりつつありますが、身近に祖父や祖母がいたり、狭い社会のなかでお互い共に育ち老いる人間関係の濃かった、いわゆるムラ社会のような過去の環境において、そのような経験知の高い老人から後続世代はさまざまなことを学んできたはずです。
一方、生活環境、医療ともに進歩した現代の長寿には、昔ほどの困難は伴いません。利便を追求した社会において極力人に頼らずに生きることは、社会生活に深く関わらないことでもあります。こうして、年齢相応の苦労や経験を積まず、気がついたら老いていたという人々も増えているはずです。長生きであることが必ずしも健康や経験の深さ、あるいは徳の高さといったものと連動しなくなった今、長生きをしただけの高齢者を尊敬することは難しくなっています。
ロスジェネ世代(世界的にはX世代)以降は、親の世代より経済的に貧しくなる戦後初めての世代と言われてきました。戦後の人口ボーナスと高度成長といった時代の偶然の恩恵を享受した現役の老年世代と比べることで、若者は自分の不安定な境遇をより不公平に感じるのかもしれません。長年の不況によりさほど豊かに生きていない最近の若者にとっては、運良く何となく生きてきたように見える高齢者が増えただけのようにも見えるのでしょう。
とはいえ、老人が概して若者より豊かに生きているとは言えません。大多数の老人の生活はつましく健康的な不安も多いのが現実でしょう。体力にも気力にも豊かな若者のほうが、人生を楽しめるし将来への希望も多く持っているはずです。
何より、これだけ多くの人々が肉体的なピークを過ぎたあとも何十年も生き続けるということは、実は不思議なことなのです。生物としての人間は、他の種と比べ、生殖可能な年齢を過ぎてからの寿命がことさら長いことが知られています。実子を残し、遺伝子を存続することが目的であれば、次世代を残した後に生物が生き続ける理由はないはずです。孫を含めた子孫の世話や、母親のみでは困難な人間の出産の手助けをするためといった「おばあさん仮説」のような進化論的な説明が有力とも言われますが、多くの謎が残っています。
長引く老年期をどのように生きるのかという課題は、人間にとって比較的新しく未開といえます。そのような未知の時間を過ごす高齢者に、「老害」や「自決しろ」という言葉を投げつけるのは残酷かもしれません。衰えを感じながら余りある時間を過ごす術をもたず、手探りで生き長らえている高齢者も多いのかもしれないのです。
今後、若い世代は「長すぎる老年期」を生き抜く知恵を、高齢者から学ぶことになるかもしれません。あたりまえですが、生き続ければいつかみな老人になります。あなたが今老人に向ける眼差しは、将来のあなたに向けられる眼差しなのです。
「おばあさん仮説」について:
小林武彦『なぜヒトだけが老いるのか』
成田悠輔さんの著作: