正しい後悔
「人にできることは、正しい後悔をもって終わるのを望むことだけなのかもしれない。」
時間は一方向に進みます。過去に戻り、何かをやり直すということはできません。取り返しのつかない失敗を認識したとき、それが後悔になるのです。
人生におけるさまざまな岐路を通り過ぎたあと、選んだ人生と選ばなかった人生、ふたつの道が現れます。その選択が成功につながれば後悔は生まれないでしょうが、失敗に終われば、その道を選んだ後悔、別の道を選ばなかった後悔、ふたつの後悔が生まれかねません。
このような逡巡と決断を繰り返すことが人生であり、私たちは数多い後悔の積み重ねとして自分の人生を振り返ることになるのかもしれません。
人にできることは、正しい後悔をもって終わるのを望むことだけなのかもしれない。1
(アーサー・ミラー『モーガン山を下る/原題:The Ride Down Mt. Morgan』)
この言葉はアーサー・ミラーによる戯曲『モーガン山を下る』の主人公で保険エージェント、ライマン・フェルトが、愛してはいるものの長年付き添った妻との結婚生活に飽き、不貞を隠し不倫をし、密かにふたつめの結婚生活を始めることに葛藤する場面、彼に投げかけられる言葉です。
不倫など言語道断、その結果と後悔に同情の余地などないと考えることもできるでしょう。ただしライマンのなかでは、情熱を失い飽き飽きした一夫一妻生活を続けるだけの自分への不正直、長年付き添った妻への裏切り、不倫相手への裏切り、二重の裏切りを隠しながらも複数の妻へ満足した生活を与えているという自負といった、さまざまな思いが交錯します。ライマンは複数の妻への裏切りを後悔しながらも、自分の欲望に対して正直に生きたということで、それらは正しい後悔だったとするのでしょうか。
さまざまな判断に重みの違いがあるように、後悔の重みにも違いがあるのでしょう。それを正しさや誤りという尺度で測るべきものかはわかりません。しかし、後悔が避けられないものであるならば、より良い後悔をもってして終わりたいと願うのが人情ではないでしょうか。
戯曲の原著:
Arthur Miller『The Ride Down Mt. Morgan』
関連書:
川野美智子『現代史を告発するアーサー・ミラーの半世紀』